カテゴリー別アーカイブ: 建築家の独り言

上越市と糸魚川市の海辺の風景

先日、新潟県上越市に行ってきました。家を設計するにあたっての現地調査です。上越市と糸魚川市の間を車で行き来したのですが、せっかくなので海を見ながら移動するルートを選びました。海沿いの道を走っていると、〈瓦屋根〉に〈杉板下見貼り〉の建物が多い事に気がつきます。その素材がもつ雰囲気はとても良く、統一された素材でつくられる風景にはある種の美しさも感じられました。

一昔前まで〈瓦屋根〉と〈杉板下見貼り〉の組み合わせを、それなりに見かけたのだろうと思います。でも、最近では珍しい印象すらあります。「瓦屋根は重いし、地震のときに問題があるんじゃないか」とか「杉板の外壁は耐久性が低いんじゃないか」とか、そういった声が多くなって、段々と新しい建材が多く使われるようになったからかもしれません。

さて、では何故この海沿いの地域には〈瓦屋根〉に〈杉板下見貼り〉の建物が多いのか・・・。いろいろと想像をすると、この地域の厳しい冬の気候には〈新しい建材〉よりも〈瓦屋根〉に〈杉板下見貼り〉が適しているのではないか、それを地元の人たちは実感しているのではないか、と思えてきました。

日本海沿いの環境はとても厳しいものです。家の材料を選ぶにあたっては、塩害と凍害への配慮がとても大切になります。錆びに強いガルバリウム鋼板でさえ、数年で錆びが目につくようになります。強い海風の影響も考えると、金属屋根よりも瓦屋根が適しているのかもしれません。凍てつく寒さの中では、窯業系サイディングなども劣化は早いのだろうと想像もできます。杉板下見貼りのほうが、メンテナンスしやすいのかもしれません。杉は手に入りやすい材料で、下見貼りは新しい建材よりも傷んだところを交換するのに適しているようにも思います。

材料の他にも、家の窓のつくり方にも目が行きます。例えば、多くの家が海側に大きな窓を設けていないところに特徴があるように見えます。

この地域で長い間にわたって育まれた智恵や工夫が見えてくるようです。一見すると目新しいものに頼るばかりではなく、先人の知恵を活かしてつくる家は、とても理想的なたたずまいをしているように感じます。

福島

建築家の独り言-3

『古典主義建築の系譜』ジョン・サマーソン著の読み返し

     『古典主義建築の系譜』との出会い

  『古典主義建築の系譜』を、25年ぶりくらいで読み返してみました。先日、この本について友人と話をしたことがきっかけです。
 『古典主義建築の系譜』はジョン・サマーソンによる著作です。私が読んだのは鈴木博之さんが翻訳したものになります。「古代ギリシアと古代ローマを範とした建築が、ルネサンス以降にどう変化しながら現代へと受け継がれてきたのか」といった事が書かれています。
 学生時代に、恩師である黒沢隆先生がこの本を薦めてくださいました。私が「建築ってなんだかよくわかりません。自分で本でも読んで考えようと思うんですが、何を読めばよいですか?」と、かなり甘えた事を言ったのに対して、黒沢先生がまじめに相手をして何冊かの本を勧めてくださいました。その中の一冊です。なぜこの本を薦められたのか、当時はよく分かりませんでした。「きっと建築ってのはこういうもんだ”という一つの事例を教えてくれたんだろうなあ」と思ったように覚えています。

 それから読み返す事はなかったのですが、何年も経ってからこの本を思い出す機会がいくどかあり、段々と見方も変わっていきました。大学を卒業した後も、私は年に数回ほど黒沢先生のお宅に伺うようにしていました。学生の頃とは違う話もするようになります。黒沢先生は、クロード・レヴィ=ストロースのような〈構造主義〉に、そしてロラン・バルトのような〈記号論〉に共感する一面をもっていました。「僕は〈文化人類学〉のように物事を見るのが好きなんだ。それは僕にとって物事が成立するに至った理由を構造的に理解するという事なんだ」と話されたことがあります。「〈日本建築〉がもっている記号性をつまびらかにしたい」という話もよくされました。先生と構造主義〉や〈記号論〉について話をしていく中で、私は「サマーソンは古典主義建築の系譜』で記号の変遷を追いかけている」と考えるようになります。それまでぼんやりと「そうじゃないかなあ」と思っていたことが、はっきりと「〈記号論〉の本なんだ」という確信へとかわっていきます。思い返してみると、サマーソンは古典主義建築をラテン語になぞらえて話を進めています。学生時代にはあまり気にも留めていなかった原題の『THE CLASSICAL LANGUAGE OF ARCHITECTURE』も、〈記号論〉として書いた本に相応しいタイトルに思えます。〈記号論〉とは、言語学者フェルディナン・ド・ソシュールが言語を記号として考えたところから始まったという見方があります。「建築を言語として見るという事は、建築を記号として見るという事だ」と言っても良いように思います。そうして私は「黒沢先生は建築を記号として見ることもできる”と伝えようとして、『古典主義建築の系譜』を薦めたのではないか」と考えるようになっていきます。

福島慶太

建築家の独り言-2

「工作的な要素が感じられるデザインをしたい」と思う事があります。工作的といって私がイメージしているのは、工芸ほど高度な熟練技術を必要とはせず、手仕事によって単純な技術で作る事が出来る一品ものといったところです。思いはあるものの、実際にはそれほど工作的なデザインをすることが出来ずにいます。

「例えば家をつくるなどは、手仕事による一品生産だと言えるのではないか。」と考える人もいるでしょう。全く同じ家はそうそうないという点では、家は一品生産だという見方が出来るとは思います。ただ私には、家は手仕事でつくられているとはもう実感できなくなっています。家を既製品の組み合わせだけで完成させようと思ったら、それほど手仕事を入れずに進めることが出来るためかもしれません。基礎だけは手作業の割合を落とすことが難しいように思いますが、一昔前の仕事と比べて今の現場の仕事は、出来上がった商品を組み上げているように見えるかもしれません。工事が高効率化された住宅メーカーの家などは、プラモデルを組み上げるような印象に近いと言えるかもしれません。とは言っても、家はプラモデルよりはるかに大きなものなので、既製品を適切に選んだり、適切な位置に適切に組み上げるという作業も大変な作業ではあります。昔に比べて熟練度や作業量を求められないとはいえ、どこをとっても組み上げるのは人なので、職人さんたちに体力や勤勉さや智恵などは必要です。

私の仕事の話に戻ると、既製品の組み合わせだけで家をつくっているわけではありません。しかし、現場監理をしていると、家づくりにかかわるどの職種にも既製品を組み合わせるという感覚が入り込んでいることを実感します。そういったところが、工作的なデザインを困難にしているように思う事があります。

例えば、現場で障子の打合せをしているときに、建具屋さんに「障子の組子の見付は7.5mmしか出来ない。」と言われた事があります。単に組子を加工したらよいだけの話なので、見付はどうとでもなるはずです。ましてや組子の割付が大きい場合などは、見付寸法が大きい方が安定します。本当は出来ないのではなくて「いつも使う流通している加工済み既製品組子の見付が7.5mmだ。」という話です。でも、きっと建具屋さんの感覚はすでに「出来ない」となっているのだろうと思います。

他にも、例えば板金屋さんに「庇の唐草の出は20mmで下がりは30mmしか出来ない。」と言われたことがあります。これも本当は出来ないのではなくて「いつも使う流通している加工済み既製品がその寸法だ。」という話です。でも、やはり板金屋さんの感覚ではすでに「出来ない」となっているのだろうと思います。

こういった話をしてきた建具屋さんも板金屋さんも、とてもまじめに仕事に取り組んでいます。仕事ぶりも丁寧です。その彼らでも既製品を取り入れずに自分たちの仕事を全うするのが一般的ではなくなってきているという事かもしれません。このような状況になったのは「常に同じ質を要求される。」「クレームが無いように質を担保する。」といった事情があるからかもしれませんし、「もう自力できれいに加工するには技術力が不足している。」「人件費を考えるとばかばかしくてやれない。」という事なのかもしれません。

多くの職種で似たような話があります。現場で大工さんがノミもカンナも使わなくなって久しく、ゲンノウもノコギリもめったに使わないように思います(電動ノコギリや電動カンナは使います)。使う必要がなければ、技術力も身につかないし腕は落ちる一方だというのは想像に難くありません。もちろんきちんと自前でカンナをつくって現場にのぞむような職人さんもいますが、めったにお目にかかる機会はありません。そういう昔ながらの職人さんの人件費は割高になります。技術に見合った人件費として当然の帰結かと思います。こうなると、工作的なデザインのものをつくるために昔ながらの技術を駆使できる職人さんに頼る限りは、一定額以上の工事費が必要になります。

単純なつくりであっても、工作的なものは割高となりがちです。私の事務所の仕事は、建築家としてはローコストなものが多く、コストコントロールはかなりシビアになります。割高な工作的なものよりも、安くあがる既製品を組み合わせる事を選ぶことが多いと言えます。

工作的なデザインを実現するために、昔ながらの技術を駆使できる職人さんに頼る他に方法は無いものか、ローコストな仕事の中でも工作的なデザインを実現できないものか、そういったことも四苦八苦しながら考え続けています。

二年ほど前に家具職人さんと話をしたときに「旅行で東南アジアに行くといつも思うんだけど、日用品にしろお土産にしろ、街中を歩くと結構大変な手加工しているのがすごく安く売っているんだよ。もう彼らの方が安いし早いし上等なんだろうなって思うよ。」と言われたことがあります。「職人さんにできる事はなにか?」といった見方をすると、状況は刻一刻と変わっているように感じます。いつだってそうかもしれませんが、「以前のやり方と同じ」では通じない事もあるのだろうと考えています。

今できる事をきちんと見極めながら、工作的な要素が感じられるデザインにも取り組んでいきたいと考えています。

福島

 

建築家の独り言-1

恩師である建築家のお墓参りをしてきました。

今日は、黒沢隆先生の祥月命日です。

月日が経つにつれて、大きな何かをなくしたという思いが少しずつ強くなっていきます。

黒沢先生から宿題も出ていたのですが、まだ手を付けてもいません。

もう黒沢先生に見ていただくことは出来ませんが、宿題にもきちんと向き合おうと思っています。

 

福島